私の超高速中国語学習法(7) 発音をマスターした者の視点から(3)

中国語発音の間違った教育については、まだ強く抗議して書かせてもらいたい。
私は、まともな英語教育を受けた者の一人として言わせてもらうが、英語を始め外国語には日本語の音声周波数を超えた高周波の子音があり、日本人では多少のトレーニングを積まないと発音・聞き取りが出来ないということを皆さんは御存知であろう。私は英語の子音の認識トレーニングとして中学・高校時代の英語学習に続けて洋楽を聴き続けて来たこともあり、高周波数の子音を聞き取る能力を少しは磨いて来たので、英語同様に高周波の子音が含まれる中国語についても苦労せず学習を進めて来ることができたのだが、世の中には近代の学校教育で英語を履修していながら英語のヒアリング能力のほとんど無い者がまだまだ多過ぎるように思われる。極端な例を挙げれば、ベッド(bed)をベットと発音・表記したり、人間ドック(dock)を人間ドッグ(犬)だと確信していたり、プロ野球の球団名で楽天Eaglesとあればイーグルズと読むべきものを楽天イーグルスと読むなどのことである。これらに共通なのは、子音が清音か濁音かの識別能力が全く無いということである。こういう誤解に気付かない人は、私には実感が湧かないが、本当にbedがベットと聞こえるのだろう。
この様な、聴覚障害でなければ即ち「日本語耳」の多数の人間が中国語を聞くと、中国語の有気音と無気音がすべて日本語の清音に聞こえてしまうのであろう。私にはハッキリと識別できるので、ただ「〜であろう」と推測するしかないが。
もう一つ、これは私の推測であり、私が何回も指摘する「無気音の日本語表記に濁点の使用を認めない不正教育」者への譲歩であるが、清朝が滅亡した頃の北京語は、現代中国語とは違って、無気音は日本人が聞いて本当に清音や半濁音に聞こえたのではないかということである。北京がbeijingではなく、peking(北京大学は現在も英語の正式名称はPeking Universityである)と綴られていたことと、中国の地名、人名等の当時の日本語表記はすべて清音だけになり、濁音を使用した例が一つも見つからないこと、戦前生まれと思われる古い時代の中国語学者の執筆した教本では、濁音を許さない表記法を頑なに守っていることがその理由だ。これは、当時の北京市内とその周辺では、旧王朝関係者と関係の深い上流階級人、文化人が庶民の言葉とかけ離れた「北京官話」を話しており、外国人もこの北京官話を話す人物と主に交流したからであろう。
だが、中国は国土が広く、地方によって数多くの方言があり、現在もなお中国国家が標準語として定めて数十年経つ「普通話」を日常的に話さない中国国民が70%以上いる。このような国民の多くは日常会話で反り舌音を使わず、有気音と無気音の区別が日本語と同じ清音と濁音になる方言を話す人が多い。私自身も上海市広東省安徽省江蘇省河南省四川省、香港、台湾などの現地人と会話して実感しているが、特に中国大陸南西部の方言には日本語の発声と互換性のある発音が多く、安徽省の現地人の会話では「到了(daole)」が「どら」の様に、極めて日本語に近い発音によってなされていたのには驚いた。
このことから、広大な中国の人民の多くは日本語の様に有気音と無気音の区別を日本語と同じ清音と濁音により区別していることによって、標準語も始めは北京官話に近かったものが次第に訛りを生じて現在のような「現代中国語の普通話」になったのではないかということが私の推測である。私は当然ながら現代中国語から中国語の学習をスタートさせた者であり、北京官話などは聞いた事が無く、初めて「再見」という単語を聞いた時、これは紛れも無く、清音ではなく濁音に近い発音でザイジエンと聞こえた。現代中国語の学習者の方々も、古い時代の中国語学者は有気音を清音を使って発音、表記するということは御存知無いであろうし知る必要も無く、わざわざ現代において北京官話の発音に言及するような「不正教育」は、学習の妨げ以外の何物でもない。更に付け加えれば、現代中国語の発音学習カリキュラムや国際表音記号による表現方法自体が北京官話の時代の産物であり、生の現代中国語にそぐわない、間違った古臭い学習方法になっているとも言えると私は考えている。
更に、私は次の様な複数の不正教育者の誤った教育理念を発見した。
・「中国語は、フランス語と並んで世界で最も聞こえの美しい言語である。これは言語を田舎臭く感じさせる成分である濁音が使われていないからとも言える。だから無気音も清音で発声すると美しく聞こえる。」(戦前生まれの中国語学者、鐘ヶ江××という人の著書より)
・「北京はペイチンと読みます。ベイジンなんて、恥ずかしくて言えません。」(Yahoo知恵袋、田子という知ったかぶり回答者。台湾語に偏った知識で中国語学習者を誤解させるのが得意。)
そもそも言語とは、聞こえの良さや美しさ、恥ずかしさの有無で優劣を付けるものではないはずである。ならばフランス語と中国語は聞こえが良いから良い言語で、日本語やタイ語アラビア語は汚い、恥ずかしい、悪い言語なのだろうか。自分が得意な分野の言語だけを美しいと表現する独善的な考えで、論理の通らない教育法を勝手に奨励するのは正当性に欠けると思うが、読者諸氏の考えは如何なものであろうか。